「すべての僕が沸騰する」

村山知義という芸術家を自分がいつ知ったのか定かではありませんが、自宅の書棚に村山知義著の構成主義に関する書物があるので、随分前に知っていたことになります。ただし、この書物はいまだ読んでおらず、そのためこの革新的な芸術家の名前を記憶に留めていないのかもしれません。先日、東京砧にある世田谷美術館で村山知義を回顧する「村山知義の宇宙」展があり、ここでようやく村山ワールドに触れて、その全貌を知ることができました。実は神奈川県立近代美術館葉山館で同展が開催されていた時期に行ってみたかった展覧会なのでした。と言うのは村山知義は1922年にドイツのベルリンに出かけ、そこでダダを初めとする前衛的な芸術運動に触れた人で、帰国後にジャンルを横断する創作活動を展開しているからです。この20世紀初頭のドイツはカンディンスキー等の表現主義から抽象にいたる先鋭的な芸術家が活躍していた時代で、自分が最も興味関心を抱いている時代です。そこを体現した日本人が帰国してから造形や詩文、演劇や舞踏といったジャンルに囚われない活動を試みたことは現在から振り返れば必然と考えますが、当時としては世相的にはまるで受け入れられないものであったろうと思います。展覧会の題名になっている「すべての僕が沸騰する」とは、どんな意味があるのか、「すべての僕の情熱と思索と小唄と哲学と絶望と病気とは表現を求めようとして具象されようとして沸騰する」と図録にあります。あらゆる価値の変換を求めて闘った村山知義という存在を今一歩踏み込んで理解してみたいという意欲に駆られます。自宅の書棚にある村山著による「現在の芸術と未来の芸術」「構成派研究」の2冊セットを近々読んでみるつもりです。

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