「この世はぼくを捉えようもない」

昨日に引き続き、クレーの詩集から感じたことをブログにまとめます。「この世はぼくを捉えようがない。死者たちや、生まれてもいない者たちのところでちょうどよく暮らしているのだから。創造の中心にふつうよりちょっと近く。でもまだ十分に近くはない。」このクレーのコトバはかなり印象的です。生や死を超えたところにある居心地のよい(と勝手に感じているのですが…)世界に住んで、何かを発信しているような感覚をもちます。非日常の中に自分を持ち込まなければ、創造行為は出来ません。世間で言う「浮いた存在」ですが、世間を洞察する目だけはしっかり持って、モノに対する考え方や感じ方を提示(表現)できなければ、単なる浮いた存在で終わってしまうのかもしれません。自己満足を周囲が認めてくれれば、それは芸術として成り立ちます。ましてや造形思考に共感してくれれば、芸術家として成功したと言っても過言ではありません。クレーのコトバにはそんな刺激を含んでいると思っています。                        Yutaka Aihara.com

関連する投稿

  • 「絵画、彫刻の自律性の追究」について 「中空の彫刻」(廣田治子著 三元社)の第一部「19世紀における『画家=彫刻家』と『芸術家=職人』の登場」の第1章「画家と彫刻家」の「3 […]
  • 彫刻家飯田善國によるピカソ評 7月27日付の朝日新聞「折々のことば」欄に、彫刻家飯田善國によるピカソ評が掲載されていて、目に留まりました。「十歳で どんな大人より上手に 描けた 子供の ように描けるまで一生 […]
  • イサム・ノグチの両親について 先日から「石を聴く」(ヘイデン・ヘレーラ著 北代美和子訳 […]
  • 昭和41年の「千円札裁判」 遅読というより、もう滞読と言ってもいいくらいの読書習慣になってしまった私ですが、「オブジェを持った無産者」(赤瀬川原平著 […]
  • 詩人の死生観について 「ぼくは死は生と地続きだ思っているんです。肉体は服を脱ぐように脱げるもので魂は生き続ける。だから、妻や友人たちを思い出すということは、彼らが、俗世間で生きているぼくたちとは違う形で生きているんだと思 […]

Comments are closed.