葉山の「長澤英俊展」

先日、横須賀美術館と県立近代美術館葉山を巡り、春の湘南海岸を満喫してきました。県立近代美術館葉山では表題の「長澤英俊 オーロラの向かう所」展が開催されていました。同伴の若い美大生は、作品の持つ素材感や空間の解釈に感動していたようでした。確かに美術館の内部空間に大きな場を作り出す作品や、重力をテーマにしたような巨大な作品は、見るものを圧倒してしまいます。日本の庭園や建築に対する現代的な解釈とイメージが、ざっくりと表現されていて、自分も楽しい時間を過ごすことが出来ました。ガラス越しに大海原が陽光にキラキラ輝いているのを見ると、こんな環境の中に建つ美術館には、素材感のある現代アートが似合っていると思いました。名残惜しい時間の中で、美術館を後にしました。湘南海岸と現代アート。なかなか素晴らしいスポットが用意されていて、充実した一日が過ごせました。

横須賀の「ワンダーシニア30展」

先日、横須賀美術館に行って表記の展覧会を観て来ました。「ワンダーシニア30展」というのは、60歳代から70歳代の日本の洋画家32人による旧作と新作を並べた展覧会のことで、日本の高度成長の中で画家としてデビューし、現在まで歩んできたそれぞれの画家の軌跡を辿ることができます。大きく作風が変わった人もいれば、同じ作風で深化を遂げてきた人もいました。いわば現代日本絵画を支えてきたパワーを窺い知ることができるのです。美術館の真っ白な空間の中で、十人十色の主張を続ける世界は、なかなか圧巻で元気をもらうことができました。この日は好天に恵まれ、美術館屋上から青い海が見え、最高のロケーションの中で、こうした展覧会を鑑賞できるのはとても幸せなことと思います。出来るなら立体作品でもこんな企画が欲しいところです。美術館の庭では故若林奮先生の大きな鉄の作品が潮風に吹かれていました。

春うららかな湘南へ

美大の受験勉強をするため工房に通ってきていた子が、目指す美大の工芸工業デザイン学科に現役で合格しました。きっとこの子も大学の課題制作や私の陶彫の手伝いのために、工房に引き続き通ってくるだろうと思います。若い世代に工房を利用してもらうのは有難いことです。自分も制作でぐずぐずしている時に、こうした若い世代に活力をもらえるのです。合格祝いを兼ねて、春うららかな湘南に新美大生とドライブをしました。美術館を観たり、湘南で獲れた魚を使った西欧料理に舌鼓を打ちながら、これからの大学生活についての相談をしました。葉山にあるレストラン「マーロー」はプリンが美味しい店ですが、海鮮料理もなかなかで、海岸に面したテラスで合格の喜びを分かちながら楽しい時間を過ごしました。当時の自分の時はどうだったのだろうと思い出すと、大学の広い施設が使えて、好きなことが出来る幸せと、将来に対する若干の不安が織り交ざり、何とも複雑な心境で入学式を迎えたことが今でも印象に残っています。自分の場合は不安がやはり的中し、卒業後は四苦八苦しながら現在に至っているわけですが、新美大生には何があっても前向きに生きるようにアドバイスをしました。実力のある子なので、目指す次の目標に向って壁をいくつも乗り越えていけるだろうと信じています。

RECORD12月・1月アップ

2008年12月と2009年1月のRECORDをホームページにアップしました。これは2月から翌年1月までの1年間でまとめていたRECORDの2シーズン目になります。因みに翌年持ち越しになるのはこのシーズンで終わりにしました。3シーズン目から単年1年間のまとめをしています。この2シーズン目の特徴は幾何形体で各月を統一していて、最後にテーマとなった幾何形体に纏わるコトバを添えています。来る日も来る日も毎日RECORDを描いていて、出来上がったものをまとめてカメラマンに撮影してもらいます。さらに、このホームページにアップするという習慣がついてしまいました。コトバは相変わらず頭を捻りながら、ノートに鉛筆で書いたり消したりして、パズルを解くように作っています。RECORDの発想と似ているかもしれないと最近思えてきました。私のホームページには最後に掲載したアドレスをクリックしていただければ入れます。ご高覧くだされば幸いです。Yutaka Aihara.com

花粉症の季節

花粉症は20年前に発症し、加齢と共にだんだん弱まってきたように思いますが、それでも朝の寝起きや夜の就寝の頃になると、くしゃみが立て続けに出ます。しばらくすると治ってくるのが最近の傾向です。昔は涙目になったり、鼻づまりになったり、くしゃみが止まらなかったりしました。今日職場では大きなイベントがあったのですが、イベント中にくしゃみが出たらどうしようと思っていました。やはり昼間は花粉症が和らいでいて助かりました。工房の土埃も喉に刺激を与えるものらしく、工房ではマスクをするように心がけています。たまに出かける近隣のスポーツ施設での水泳も、プールから上がった後で、くしゃみを連発しています。この季節は花粉症に耐える習慣がついていて、不快な状況を抱えつつ制作や仕事をやっています。

通勤途中に壊れた鞄

昨年4月に今の職場に転勤してきて、まず鞄を購入しました。A4版の資料が収まるサイズのものが欲しかったのです。さらに自家用車通勤からバスや電車の通勤になって鞄の需要が増えると思いました。案の定、鞄を肩から提げて歩くことが多くなり、おまけに厚い書籍を入れていました。通勤途中の読書が楽しみのひとつになり、その時間だけは芸術の世界に思いを馳せることが出来るのです。そんな時に通勤途中でアクシデントがあり、鞄の金具が壊れてしまい、鞄が閉まらないままになってしまいました。そんなわけで、今は以前使っていた古い小さめの鞄を持ち歩いています。以前使っていた鞄は丈夫で長持ちで、厚い書籍にも耐えています。通勤形態が変わると、持ち物にも変化が見られ、通勤時間の使い方も自分なりに工夫して楽しくしようとしている自分を発見しました。

仕事帰りに窯出し

仕事の帰り道にちょっと工房によって、窯出しをしてきました。日曜日の夕方に窯入れをして、水曜日に窯出しをするという習慣が出来つつあります。工房はほんのり暖かくなっていて、窯の中の温度は100度少々まで下がっていました。窯のスイッチを入れると10数時間かけて1200度以上まで上がり、そのあとにわかに温度は下がっていくのです。窯の扉を開ける時は、いつもドキドキします。今日は上手く焼けていたように思います。工房に立ち寄ると、つい長居をしたくなるのですが、ウイークディで制作をやるわけにもいかず、工房を後にして自宅に帰りました。こんなものを作って焼いてみたい、あんな試みをしてみたいと、思いは膨らむばかりです。イメージは突然生まれるのではなく、制作の流れの中で発展しながら生まれるものだと思っています。また週末が楽しみになっています。手の込んだ成形を行う予定でいます。再び焼成が上手くいくことを祈りつつ…。

作家不在の工房の存在感

ロベール・ドアノー写真集「芸術家たちの肖像」の中で、工房だけが撮影されている頁があります。そこに作家はいません。ただし、文章で作家の存在が示されています。「そこはヴォージラール通りの裏手にある行き止まりで、緑が好き放題はびこっていた。アーティストたちのウサギ小屋。いわばつくりかけに見えなくもない様式のアトリエが苗床のように植わっている路地だった。~略~」(ロベール・ドアノー 文・堀内花子 訳)自分のブログにも書いたことがあるコンタンティン・ブランクーシの工房です。自分が見たのは、再現されたブランクーシの工房で、パリのポンピドー・センター前の広場にありました。撮影されたのは実際の工房で、1960年3月9日の撮影となっています。ちょうど50年前の今日の日付です。当のブランクーシに迎えられ会話も交わしているのに、どうして作家が写っていないのかよくわかりません。工房の内部は、ありのままの素材と作りかけの作品が置かれ、あたかも自分がそこで何かしているような錯覚に陥ります。ブランクーシの工房は、自分が見たのが再現された工房だったとしても、目に焼きついています。それが自分の工房が欲しいと思った最初の動機だったのかもしれません。

風景の再構築

近隣を散策していると、かつて自分が小学校に通った小道が変貌していて、昔の見慣れた風景が思い出せなくなっているのに気づきます。住宅が密集し、かつての小道より大きな通りが横に出来ていて、ここまで変わってしまうと自分の記憶に自信が持てません。そういえばこのあたりに小川があった、このあたりは田畑が続いていて、ここは土手になっていた、と記憶を辿りながら歩くと、郷愁に誘われることもあります。横浜に生まれ、横浜に育った自分ですら、そんな思いをしているので、遠いところに故郷を持っている人はなおさらだろうと思います。自分の脳裏にすり込まれた記憶の断片は、それが通学路だったり、自宅の裏山だったり、亡父が生業にしていた造園だったりするのです。とりわけ造園は、自分が中学生の頃から父の仕事を手伝っていたので、人のサイズで見渡せることができる庭園という自然を網羅した小宇宙が自分の感覚の中に入り込んでいるのかもしれません。それが今になって別のカタチとなって表れているように思います。今自分が試みている集合体による彫刻は、あるいは自分の中で血肉化した造園が基本になっていると思います。これは風景の再構築とも言えます。土や木という材質に魅力を感じ、そこに可能性を求めている自分は、幼い頃から接していた家業と因果関係があるように思えてなりません。

週末 窯入れ・タタラいろいろ

昨日、土練りをしたので今日はそれを使ってタタラを作り、成形の準備をしました。今日も相変わらず工房は寒く、身体が縮こまっています。先日工房での冬を乗り切れたと思ったら、まだまだ寒い日が続きます。FMラジオを流して、陶土を弄ったり、RECORDの彩色をして過ごしました。窯入れの準備もしました。化粧土をかけて、3点の陶彫パーツとボランティアの子が作っている仮面を窯に入れました。照明等すべての電気を消して、窯のスイッチを入れます。そうしないと窯焚きの途中でブレーカーが落ちてしまうのです。業者に容量を変えてもらおうかとも思ったのですが、月曜日から当分工房は使わないので、ぎりぎりの容量でやっていこうと決めました。とくに陶彫は釉薬を使わないので、窯の温度上昇にあまり神経を使いません。また水曜日あたりに窯出しをする予定です。

週末 土練り・成形いろいろ

昨日と打って変って寒い一日でした。今日はボランティアの子がやってきて、土錬機を回して土練りをやってくれました。陶土は1包みが20キログラムで、それを4つほど練っていきます。1ヶ月に1度くらいの割合で、80キログラムの陶土を作るのです。自分の作品に使う陶土ですが、今までどのくらいの土練りをしてきたのでしょうか。自分は先週タタラにしておいた陶土で成形を始めましたが、今日はうまくいかず、結局ボランティアの子がやっている土練りを手伝うことにしました。数歩進むと一歩後退。陶彫とは難しいものです。また明日に希望を託します。成形の合間にRECORDをやりました。今回のRECORDはペンによるデッサンが主流で、最近はよく具象的な絵を描いています。工房で過ごす時間は相変わらず密度が濃くて、あっという間に夕方を迎えます。

暖かな一日

今日はようやく春らしい一日が訪れたように感じました。室内で仕事をしている身には季節感がまるでないのですが、通勤途中に肌に触れる空気は、柔らかく暖かな感じを持ちました。工房の周囲には梅が咲いています。風景の中に花が咲き始めるのは、何ともいいものです。季節が確実に動いていくのがわかります。朝の通勤が楽に感じられるようになるのは、こんなふうに咲いている花々に見送られているお陰ではないかと思っています。真冬は真っ暗だった朝のバス停も、今では明るくなって見通しがよくなりました。明日からの週末に思いを馳せながら、ハナ金を過ごしました。

「余白に書く」を読む

表題の「余白に書く」というのは、「瀧口修造全集Ⅳ」の副題です。「余白に書く」とはどういうことだろうと思って読み始めました。「余白に書く」とは展覧会や公演に寄せた文章であることがわかり、その夥しい数の文章が「瀧口修造全集Ⅳ」と「瀧口修造全集Ⅴ」にまとめて収められていることも知りました。短文あり、やや長文もあり、詩作として捧げたものまで瀧口修造の多義にわたる才能を感じます。紹介されている作品を、実際に見ていなくても、その洞察の深さによって、それがどのような意図で作られたものかを窺い知ることができ、また興味が湧き出てきます。作品に味を添える、またはそこからエスプリのあるコトバで作品に位置を与えることが、つまり「余白に書く」ということでしょうか。大上段に構えた論評ではなく、さりげないコトバで鑑賞者を惹きつけている余白に感銘を受けるのは、決して私だけではないと思います。

読書ができる貴重な時間

職場では管理職といえども雑用に追われる毎日で、こんな時に通勤時間帯や余暇に読書ができる幸せを感じます。本を読む、活字を追う行為から広がるイメージの世界は、自分が今まで蓄積したあらゆる体験や経験を駆使して構築したものです。人それぞれによって体験や経験が異なるので、当然イメージが違っていると思うのです。コトバから生まれる世界観が人によってさまざまなところがいいと思います。映像はイメージを固定化します。コトバは自分で映像を組み立てさせ、そこから動きを作ります。その国の言語によっても、そこから生まれるイメージに相違があると考えます。自分は読書は創造行為だと思っています。読書ができる貴重な時間。陶彫やRECORDやこのブログと同じ価値を持つ時間だと考えています。

3月RECORDは「穿つ」

昨日から今月のRECORDのテーマを考えながら、一日1点のポストカード大の作品作りを行っています。RECORDというのは、日々の記録として作品を作っていく総称で、自分に課したノルマでもあるのです。自分のホームページにも過去のRECORDをアップしています。さて、今月のテーマですが、穴が穿ってあり、そこから何かが伸びていくイメージが浮かんでいます。昨日描いたRECORDは、折り重なる樹木に裂け目ができ、そこを突き抜けて新たな樹木が伸びていくような風景でした。また5日間をひとつのシリーズとして展開できるようにしていきたいと考えています。穴を空けた心象風景は過去のRECORDでもやっています。穴は自分の陶彫作品にも多く見られ、空洞化された物質が自分はとても好きなのかもしれません。20代の頃、トルコを長距離バスで旅をしていて、カッパドキアに辿り着き、そこでみた奇岩に穴を穿って住んでいる人々に、美術的な感興が湧いた記憶があるのです。そんな記憶が陶彫やRECORDに表れてきても不思議ではありません。今月は「穿つ」というテーマでRECORDをやっていこうと思います。

3月 春の宵に…

ずい分暖かくなりました。今日から3月です。昨年のブログを見ると、この時期「発掘~赤壁~」が出来上がりつつあって、週末頑張っている様子が伺えます。今年の「構築~瓦礫~」は、どうも今月中に出来上がりそうもありません。まだ全体構成に至らず、気は焦るばかりです。でも今の作品は作っていて面白いし、自分の工房で悦に入っていることがあって心は充実しています。今月はともかく「構築~瓦礫~」の完成を目指すことです。幸い暖かくなって工房で過ごす時間が楽になりました。次の水曜日に何回目かの窯が焚き上がります。RECORDも今月のテーマを考えながら思索しています。自分のヴァイオリズムは春に向って伸びていくようで、意欲が湧いてくるのを感じます。春の宵に1ヶ月の制作工程をイメージしながら、RECORDの下書きをやっています。

借りた作業場と自分の工房

昨年7月に農業用倉庫として建てた自分の工房。すっかり制作ペースが出来上がって、週末には必ずそこで作業をしています。今日も2月最後のRECORDをやって、陶彫の手の込んだ成形をやって、タタラを作って…というように作業を進めていましたが、自分の工房だと認識しているためか、あれもこれも気になって、時間があれば、あそこを整理したいとか、別の作品を同時に作りたいとか、様々な考えが巡ってしまいます。自分が横浜市公務員の定年退職を迎えた時には、きっと日々工房に籠もっているんだろうなと今から想像がつきます。指折り数えて退職を楽しみにしている自分がいるのですが、今は考えが巡りすぎて、現在作っている作品がなかなか進みません。そこは昨年まで借りていた作業場との意識の違いがあります。借りていた作業場は時間に追われるように作品を作っていました。部品を散らかしていても夕方には片付けなくてはならず、元通りにして作業場を出ました。作業場では周囲が気になることもなく、自分の作品だけを見つめていました。借りた作業場と自分の工房。自分の工房の方がいいに決まっていますが、なかなか進まない作業に苛立ちもあります。じっくり落ち着ける環境があるのに、あと6年くらい足りない時間の中で右往左往しなければならないのかと週末が終わるひと時に思っています。

週末の陶彫パーツ制作継続

週末は新作「構築~瓦礫~」のための陶彫パーツ作りに励んでいます。先週、手の込んだ陶彫パーツの成形が終わりましたが、今日も目立つ場所に置く陶彫パーツをもうひとつ作り始めました。集合彫刻としてパーツを数多く作り、その組み合わせによって作品にする方法を取っているので、パーツ作りは毎週末にやっています。目立つパーツとそれを支えるパーツがあって、全体のバランスを取るように構成するのですが、目立つパーツはまだまだ必要で、当分は緻密な作品を作っていきます。手をかけて作るパーツは、実は結構面白くて時間を忘れます。厚手にしたタタラを削ったり、加飾していくのは気持ちの良い作業です。陶土と触れ合っていると、心が安定してきます。一日があっという間に過ぎていくのです。こんな時間をずっと持ちたいと願いつつ、週末だけの限りある時間の中で、何とか集中してやっているのが現状です。明日もきっとこの繰り返しで、時間を惜しむように制作に励んでいると思います。

RECORDに「龍」描く

今月のRECORDのテーマは「渦巻く」です。そこで、天に昇る龍を描きはじめました。龍と虎は日本古来のモチーフで、掛け軸や屏風に優れた作品が残されています。京都の天竜寺の天井画には加山又造が描いた龍、建仁寺の天井画には小泉淳作が描いた双龍図、その他にも妙心寺には有名な「八方睨みの龍」があります。身体が大蛇のような龍は昔から画家の想像力を刺激してきました。自分もポストカード大の小さな画面ですが、一日1枚ずつ渦巻く龍を描いています。この毎日描くRECORDを始めてから4年目に入りますが、龍を描くのは始めてです。今年はかなり具象傾向になっていて、それはそれで新鮮です。次第に純化して抽象化してしまう傾向を抑えて、具象に留まることは今までなかったことでした。学生時代に盛んにやっていたデッサンを追体験しているようです。

「書」に対する思い

今晩は管理職仲間が集まって、日頃のストレスを発散させる機会をもちました。飲み会の席で隣に座った仲間は、「書」を嗜む人で、彼の「書」を見に行った感想を、前にブログで紹介しました。飲み会の間も「書」談義に花が咲き、自分がやっている美術と共通するものがありました。自分は「書」を見る時、美術的な見方をしてしまいます。「書」を意味のあるコトバとして読み取るのではなく、墨の黒と余白の白のコントラストとして見てしまうのです。いわば文字を記号化してしまい、抽象絵画のように黒と白が同等の価値をもち、さらに黒と白が織り成す空間を楽しんでいる傾向が自分にはあります。落款も同じです。自分がかなりいい加減に、言葉を変えれば自由気儘に彫っている印も、自分にとっては抽象絵画なのです。朱と白を空間として捉え、画面構成を作っていくのは絵画と同じだと思っているのです。落款は新作ごとに新しく彫ると言ったら、「書」も似ていると彼は言うのです。「書」も絵画と同じように空間の解釈として、筆法も自由にやれるとすれば、自分もできるかもしれないと思ったひと時でした。

イメージするチカラ

近隣のスポーツクラブに行って身体を動かしている時に、運動能力とは何だろうと考えています。たとえば水泳でたいして力を入れなくても楽にスイスイ泳ぐことができる、つまり無駄のない動きで運動をしていることだと思っています。それはどうしてそのような泳ぎができるようになるのか、ひたすら練習しても何かに気づかなければ、疲労するばかりで楽にスイスイ泳ぐことはできません。自分も大なり小なりそうかもしれませんが、近くで泳いでいる人を見るにつけ常々感じていることです。自分のことは棚上げして思うに、運動は何であれイメージするチカラが必要なのではないかと思うのです。よく言われるのがイメージトレーニングですが、それはただ見るのではなく、何かをやろうとする時に瞬時に感じ取るチカラのことだと思います。自分が行動に対して、どのくらいのイメージをもてるかどうかで運動能力が推し量れるのかもしれません。仕事帰りにスポーツクラブで感じたちょっとしたこと、これもイメージの端くれかなと思います。

夢の記述

最近ほとんど夢を見ないので、夢に関する話題は自分にとって微妙と言わざるをえません。家内はよく夢を見るらしく、朝食の時に夕べ見た夢の話題になる時があります。夢はどんな時に見るのでしょうか。精神状態や健康状態が夢を見ることに影響があるのでしょうか。フロイトの「夢判断」がありますが、無意識のうちに欲求を満たすものが夢であり、そこに意識が多少関わって夢の情景が歪んでしまうようなことを、ずい分前に聞いたことがあります。欲求といえば、かつて夢で自分は素晴らしい絵画を描き上げ、寝起きにそれをスケッチに描きとめた記憶があります。どうしても夢のようには上手くいかず、放り出してしまいました。愛読書「瀧口修造全集Ⅲ」に「寸秒夢」という章があります。瀧口は枕元に筆記用具を用意しておいて、夢の記述を試みているのです。読んでみると、確かに記憶の断片が繋がって、そこで何の疑問も違和感も無く自然に振舞う自分がいて、そういう夢の気分を自分も昔味わったことがあると妙に同感してしまいました。夢は脈絡の無いドラマ。でも自分は何者でもない自分として存在していて、いろいろな関わりの中で夢の中を生きているのです。それは詩の原形と言えるのか、イメージの産声なのか、刻み込まれた記憶の現れ方に人間の不思議を感じずにはいられません。

運転免許の失効手続

公開しているホームページ内のNOTE(ブログ)にも関わらず、自分のメモや失態を許容範囲で掲載しています。というのもブログは、自分の振り返りとして後になって読み返し、時に自分の気分を高揚させたり、戒めたりすることがあるからです。今日のブログの内容は甚だプライベートですが、自分の恥ずかしい一面を吐露する内容を掲載することにしました。運転免許証が失効しているのに先週気づいたのです。失効してまだ1週間。昨年4月より現在の職場に異動してきて、自家用車通勤からバスや電車による通勤に変わりました。職場が自宅から近くなったことで、車の必要性を感じなくなったこと、多忙にかまけて免許証の有効期限を確認しなかったことが原因です。いざ失効してみると、やはり不便を感じて、今日は職場を午前中休んで運転試験場に行きました。自分と同じでうっかり失効してしまった人が多いのには驚きましたが、更新なら速やかに終わる手続が、たっぷり時間を取られて、それでも即日交付になってホッとしました。夜、さっそく家内と車で買い物に出かけました。通勤に使わなくても便利な生活必需品になっている車。やれやれ。文明の利器には勝てないと思った一日でした。

陶彫成形に時間をかける

工房に籠もって制作に励んだ一日でした。今日は新作「構築~瓦礫~」の部品になる陶彫の成形にたっぷり時間をかけました。陶彫の部品は少しずつ出来上がっているのですが、そのうちいくつかの部品は加飾に時間をかけて、目立つ位置を与えようとしています。集合彫刻の部品は目立つものがあれば、それを支える部品があって、それでバランスを保つように作ります。まして今回の新作は全体計画を意図的に考えずに作り始めているので、ポイントをどうするかは、勘を頼りにやっているのです。きっとこんな具合になるはずだと信じて、陶彫の部品作りに励んでいます。出来上がった陶彫の部品を見ながら、そろそろこんな陶彫の部品を作ってみようと思い立ってやっているのです。現在作っているものは、手間暇かかる加飾を施していて、他の部品よりもやや背が高く、部品を集めた時に目立つような工夫をしています。巧くいくかどうかわかりませんし、または無駄が出そうな気もしていますが、アバウトな構想で始めたことなので、そこだけは貫いてやっていこうと思っています。

イメージは転寝とともに…

今日は週末ですが、職場の施設を他団体に貸すために自分だけは出勤していました。とくにやるべきこともなく過ごしていた職場でRECORDを描いていました。今月のRECORDは「渦巻く」テーマでやっています。渦巻くイメージをあれこれ考えるうち、龍が渦巻いて天に昇るイメージが出てきて、これもありかなと思っています。今月のどこかで龍の表現を試そうと思います。午後は自宅に帰ってきましたが、中途半端な時間で工房に行って陶彫に手を入れる気になれず、自宅でぼんやり過ごしているうち、ソファで転寝をしてしまいました。すると転寝で作品になるかどうかわからないイメージが沸々と出てきました。昨年夏にギャラリーせいほうでの個展で発表した「発掘~赤壁~」という作品があります。壁の上に作った陶彫の部分が昆虫のようだと誰かに言われました。そのせいか甲冑を纏った虫が這っているイメージが出てきて、これを自分が陶彫で作ろうとしている夢をみました。もうひとつ、ひょろひょろと尖った塔がいっぱい突き出した風景が現れて、そのギクシャクとした中に自分が取り込まれている夢もみました。それはドイツ表現派の作り出す遠近を歪めた風景のようでした。工房に行かずとも今日は頭の中で多くの仕事をしたような気分でいます。

ジャスパー・ジョーンズの素顔

これは私だけが感じることなのかもしれませんが、アメリカの現代美術の旗手は、誰でもカリスマ的風貌を持っていると信じて疑いません。アンディ・ウォーホルの風貌から受ける偏った印象でしょうか。それともジャクソン・ポロックの派手な制作風景の印象でしょうか。ジャスパー・ジョーンズの作品から受ける印象も同じです。ダーツの標的やアメリカの国旗等を題材にして、ネオ・ダダやポップ・アートの先駆的な作品は、世界的に知られる存在です。絵画でありながら従来の絵画性を否定した作品は、学生だった自分を刺激しました。絵画自体が「もの」であり、平面的なオブジェを作っていると考えれば、容易く理解はできるのですが、何か近づき難い雰囲気を感じていました。ドアノー写真集「芸術家たちの肖像」に登場するジャスパー・ジョーンズは、とても人間臭い表情をしています。作品を作っている時の眉間に皺を寄せる気難しい表情。版画工房で見せる屈託の無い笑顔。カメラはその人の一瞬の仕草を捉えて、人となりを浮き彫りにしているかのようです。ジャスパー・ジョーンズを身近に感じることのできる写真です。

ギャラリーに「赤壁」アップ

自分のホームページの中のギャラリーに「発掘~赤壁~」をアップしました。昨年夏のギャラリーせいほうの個展で発表した陶彫による作品です。昨年の今頃作っていた思い出があります。「発掘~赤壁~」を考えた時の、初めのイメージは4点からなる連作です。4点が全部完成したところで発表しようと思っていました。まだその計画は続行中ですが、「発掘~赤壁~」を作ってみると、意外に時間がかかり、4点を全部仕上げていると個展に間に合わなくなることがわかりました。そんな思いで制作した作品なので、時間さえ許せば次の壁シリーズを作りたくて仕方がないのです。陶彫の部分に照明を仕込むことも考えました。それが出来るように細工はしてあるのですが、これも個展に間に合わず、単純な彫刻作品として発表したのです。ホームページをご覧になりたい人は、この文章の最後にあるアドレスをクリックしていただければホームページに入れます。ご高覧いただければ幸いです。 Yutaka Aihara.com

ピカソのポートレート

ドアノー写真集「芸術家たちの肖像」の中で、やはり一番気を引くのはパブロ・ピカソのポートレートです。ピカソのポートレートは自宅にもう一冊、ディビット・ダグラス・ダンカン写真集「ピカソとジャクリーヌ」があります。これはカンヌのヴィラ・カリフォルニーで撮影したモノクロ写真で構成されていて、美しいジャクリーヌと暮らしたピカソの充実した制作ぶりや気儘に生活を楽しんでいた様子が垣間見られて、それだけで創作の現場をありありと示す大変説得力のある写真集になっています。「芸術家たちの肖像」に登場するピカソは、陶芸の制作現場となったヴァロリスでの様子です。骨格のはっきりした風貌に眼光鋭いピカソは横縞のシャツを着ています。大きな手の形をしたパンをテーブルにおいてポーズをとるお茶目なピカソもいます。この横縞のシャツはどこかで見たような…箱根の彫刻の森美術館にあるピカソ館に確か同じ写真があった…かもしれません。数点の写真の中で印象的なのは、カマキリを手のひらに乗せたピカソの写真です。ピカソの行動そのものが、どんな場面でも創作への息吹に感じられるのは自分だけでしょうか。

写真集「芸術家たちの肖像」

表題はロベール・ドアノー写真集「芸術家たちの肖像」(岩波書店)です。自宅の書棚には田沼武能写真集「アトリエの101人」(新潮社)、南川三治郎写真集「アトリエの巨匠・100人」(新潮社)があって、時折頁を捲っています。芸術家の制作現場を撮影した写真集は全部で3冊持っていることになります。同じ創作をやっている者として、他人のアトリエや工房を覗くことは俗っぽいと言われても興味津々です。巨匠と言われる人々はなおさらで、写真に写し出された風貌がその人の作品とよく似ていたり、また裏切られたりして、何とも楽しい限りです。なるほど、この人はこんな場所で制作しているのかと思うことがいいのです。「芸術家たちの肖像」を眺めていると、この普段着の人が、実は○○という芸術家だったのかと改めて思い知り、その人物の様子や周囲の環境から様々なことが想像できます。「芸術家たちの肖像」で、気になった芸術家は何人かいましたが、それはおいおいブログに書かせて頂くとして、ともあれこのモノクロの写真集には、創造する現場がリアルに現れていて、自分は大変な刺激を受けました。

目黒の「ベルナール・ビュフェ展」

昨日、目黒区美術館で開催中の「ベルナール・ビュフェ展」に行ってきました。昨日のブログに書いた通り、昨日は親戚の招待を受けたり、池袋に沖縄民謡を聴きに行ったりした一日でしたが、昼の僅かな時間を使って、目黒にも足を運んだのでした。ビュフェは自分にとって御馴染みの画家です。御殿場にあるビュフェ美術館には数回行ってるし、それ以外にもギャラリーで絵画や版画を観ているのです。それほど日本人にとってビュフェは身近な画家なのかもしれません。抑えたグレートーンの画面の中に、ささくれ立った黒い線で細い人物群像を描いた作品が、ビュフェ絵画の定番と言えるほど自分の印象に残っていて、そんな作品にまた出会えると思うとワクワクしてくるのです。果たしてビュフェ絵画の定番はやはり目黒にも来ていました。人物はそれぞれ孤独感を抱え、意思の疎通が無いような雰囲気が漂います。虚無感や不安感が画面を支配しているのです。今回の目玉は「木を植えた男」の著者として知られるジャン・ジオノとビュフェの交流を取り上げていることです。ジャン・ジオノの著書「純粋の探求」にビュフェが挿画を制作していて、2人のコラボレーションがそれぞれの主張するものに説得力を与えているように思えます。文学と美術がお互いを生かしている例は他にもありますが、今回は上質できらりとした光る世界を見せているような感想を持ちました。

沖縄民謡の夕べ

週末の制作ノルマを早朝5時半から工房で行い、午後時間を空けました。家内の従兄弟たちが集まるというので、自分も招待を受けたのです。手料理を振舞われて、いい気分になっていたところに、従兄弟の一人が沖縄民謡を聴きに行こうと言うので皆で夕方出かけることになりました。家内も含めて集まった従兄弟たちは奄美大島の血を引く人たちです。沖縄とはあまり関係ないのに、と考えていたら大学の同期に沖縄の伝統音楽を研究している人がいるとか…。それならばサンシンや太鼓の響きをぜひ聴きたいと、池袋の居酒屋「塁」に席を移しました。従兄弟の同期の大城さんは太鼓、島唄はプロのミュージシャンである八重山民謡師範の吉川忠尋さん。今日は沖縄の旧正月にあたるそうで、まず祝い歌から始まり、ノリのいいビギンの歌まで沖縄一色の演奏に、思わず踊りだしてしまいました。自分は踊りながら、じっとサンシンを演奏する吉川さんの手を見つめていました。サンシンがやってみたいと思い始めています。自宅には奄美大島から送ってもらった立派なサンシンがあるのです。もう少し暇ができれば、サンシンの弾き歌いをやってみたいのです。それはいつになることやらわかりませんが…。仕事以外に夢は広がるばかりです。

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