仕事帰りに窯出し

仕事の帰り道にちょっと工房によって、窯出しをしてきました。日曜日の夕方に窯入れをして、水曜日に窯出しをするという習慣が出来つつあります。工房はほんのり暖かくなっていて、窯の中の温度は100度少々まで下がっていました。窯のスイッチを入れると10数時間かけて1200度以上まで上がり、そのあと俄に温度は下がっていくのです。窯を扉を開ける時は、いつもドキドキします。今日は上手く焼けていたように思います。工房に立ち寄ると、つい長居をしたくなるのですが、ウイークディで制作をやるわけにもいかず、工房を後にして自宅に帰りました。こんなものを作って焼いてみたい、あんな試みをしてみたいと、思いは膨らむばかりです。イメージは突然生まれるのではなく、制作の流れの中で発展しながら生まれるものだと思っています。また週末が楽しみになっています。手の込んだ成形を行う予定でいます。再び焼成が上手くいくことを祈りつつ…。

作家不在の工房の存在感

ロベール・ドアノー写真集「芸術家たちの肖像」の中で、工房だけが撮影されている頁があります。そこに作家はいません。ただし、文章で作家の存在が示されています。「そこはヴォージラール通りの裏手にある行き止まりで、緑が好き放題はびこっていた。アーティストたちのウサギ小屋。いわばつくりかけに見えなくもない様式のアトリエが苗床のように植わっている路地だった。~略~」(ロベール・ドアノー 文・堀内花子 訳)自分のブログにも書いたことがあるコンタンティン・ブランクーシの工房です。自分が見たのは、再現されたブランクーシの工房で、パリのポンピドー・センター前の広場にありました。撮影されたのは実際の工房で、1960年3月9日の撮影となっています。ちょうど50年前の今日の日付です。当のブランクーシに迎えられ会話も交わしているのに、どうして作家が写っていないのかよくわかりません。工房の内部は、ありのままの素材と作りかけの作品が置かれ、あたかも自分がそこで何かしているような錯覚に陥ります。ブランクーシの工房は、自分が見たのが再現された工房だったとしても、目に焼きついています。それが自分の工房が欲しいと思った最初の動機だったのかもしれません。

風景の再構築

近隣を散策していると、かつて自分が小学校に通った小道が変貌していて、昔の見慣れた風景が思い出せなくなっているのに気づきます。住宅が密集し、かつての小道より大きな通りが横に出来ていて、ここまで変わってしまうと自分の記憶に自信が持てません。そういえばこのあたりに小川があった、このあたりは田畑が続いていて、ここは土手になっていた、と記憶を辿りながら歩くと、郷愁に誘われることもあります。横浜に生まれ、横浜に育った自分ですら、そんな思いをしているので、遠いところに故郷を持っている人はなおさらだろうと思います。自分の脳裏にすり込まれた記憶の断片は、それが通学路だったり、自宅の裏山だったり、亡父が生業にしていた造園だったりするのです。とりわけ造園は、自分が中学生の頃から父の仕事を手伝っていたので、人が見渡せることができる庭園という自然を網羅した小宇宙が、自分の感覚の中に入り込んでいます。それが今になって別のカタチとなって表れているように思います。集合体による彫刻は、あるいは自分の中で血肉化した造園が基本になっているのかもしれません。土や木という材質に魅力を感じ、可能性を求めている自分は、幼い頃から接していた造園業と因果関係があるように思います。

週末 窯入れ・タタラいろいろ

昨日、土練りをしたので今日はそれを使ってタタラを作り、成形の準備をしました。今日も相変わらず工房は寒く、身体が縮こまっています。先日工房での冬を乗り切れたと思ったら、まだまだ寒い日が続きます。FMラジオを流して、陶土を弄ったり、RECORDの彩色をして過ごしました。窯入れの準備もしました。化粧土をかけて、3点の陶彫パーツとボランティアの子が作っている仮面を窯に入れました。照明等すべての電気を消して、窯のスイッチを入れます。そうしないと窯焚きの途中でブレーカーが落ちてしまうのです。業者に容量を変えてもらおうかとも思ったのですが、月曜日から当分工房は使わないので、ぎりぎりの容量でやっていこうと決めました。とくに陶彫は釉薬を使わないので、窯の温度上昇にあまり神経を使いません。また水曜日あたりに窯出しをする予定です。

週末 土練り・成形いろいろ

昨日と打って変って寒い一日でした。今日はボランティアの子がやってきて、土錬機を回して土練りをやってくれました。陶土は1包みが20キログラムで、それを4つほど練っていきます。1ヶ月に1度くらいの割合で、80キログラムの陶土を作るのです。自分の作品に使う陶土ですが、今までどのくらいの土練りをしてきたのでしょうか。自分は先週タタラにしておいた陶土で成形を始めましたが、今日はうまくいかず、結局ボランティアの子がやっている土練りを手伝うことにしました。数歩進むと一歩後退。陶彫とは難しいものです。また明日に希望を託します。成形の合間にRECORDをやりました。今回のRECORDはペンによるデッサンが主流で、最近はよく具象的な絵を描いています。工房で過ごす時間は相変わらず密度が濃くて、あっという間に夕方を迎えます。

暖かな一日

今日はようやく春らしい一日が訪れたように感じました。室内で仕事をしている身には季節感がまるでないのですが、通勤途中に肌に触れる空気は、柔らかく暖かな感じを持ちました。工房の周囲には梅が咲いています。風景の中に花が咲き始めるのは、何ともいいものです。季節が確実に動いていくのがわかります。朝の通勤が楽に感じられるようになるのは、こんなふうに咲いている花々に見送られているお陰ではないかと思っています。真冬は真っ暗だった朝のバス停も、今では明るくなって見通しがよくなりました。明日からの週末に思いを馳せながら、ハナ金を過ごしました。

「余白に書く」を読む

表題の「余白に書く」というのは、「瀧口修造全集Ⅳ」の副題です。「余白に書く」とはどういうことだろうと思って読み始めました。「余白に書く」とは展覧会や公演に寄せた文章であることがわかり、その夥しい数の文章が「瀧口修造全集Ⅳ」と「瀧口修造全集Ⅴ」にまとめて収められていることも知りました。短文あり、やや長文もあり、詩作として捧げたものまで瀧口修造の多義にわたる才能を感じます。紹介されている作品を、実際に見ていなくても、その洞察の深さによって、それがどのような意図で作られたものかを窺い知ることができ、また興味が湧き出てきます。作品に味を添える、またはそこからエスプリのあるコトバで作品に位置を与えることが、つまり「余白に書く」ということでしょうか。大上段に構えた論評ではなく、さりげないコトバで鑑賞者を惹きつけている余白に感銘を受けるのは、決して私だけではないと思います。

読書ができる貴重な時間

職場では管理職といえども雑用に追われる毎日で、こんな時に通勤時間帯や余暇に読書ができる幸せを感じます。本を読む、活字を追う行為から広がるイメージの世界は、自分が今まで蓄積したあらゆる体験や経験を駆使して構築したものです。人それぞれによって体験や経験が異なるので、当然イメージが違っていると思うのです。コトバから生まれる世界観が人によってさまざまなところがいいと思います。映像はイメージを固定化します。コトバは自分で映像を組み立てさせ、そこから動きを作ります。その国の言語によっても、そこから生まれるイメージに相違があると考えます。自分は読書は創造行為だと思っています。読書ができる貴重な時間。陶彫やRECORDやこのブログと同じ価値を持つ時間だと考えています。

3月RECORDは「穿つ」

昨日から今月のRECORDのテーマを考えながら、一日1点のポストカード大の作品作りを行っています。RECORDというのは、日々の記録として作品を作っていく総称で、自分に課したノルマでもあるのです。自分のホームページにも過去のRECORDをアップしています。さて、今月のテーマですが、穴が穿ってあり、そこから何かが伸びていくイメージが浮かんでいます。昨日描いたRECORDは、折り重なる樹木に裂け目ができ、そこを突き抜けて新たな樹木が伸びていくような風景でした。また5日間をひとつのシリーズとして展開できるようにしていきたいと考えています。穴を空けた心象風景は過去のRECORDでもやっています。穴は自分の陶彫作品にも多く見られ、空洞化された物質が自分はとても好きなのかもしれません。20代の頃、トルコを長距離バスで旅をしていて、カッパドキアに辿り着き、そこでみた奇岩に穴を穿って住んでいる人々に、美術的な感興が湧いた記憶があるのです。そんな記憶が陶彫やRECORDに表れてきても不思議ではありません。今月は「穿つ」というテーマでRECORDをやっていこうと思います。

3月 春の宵に…

ずい分暖かくなりました。今日から3月です。昨年のブログを見ると、この時期「発掘~赤壁~」が出来上がりつつあって、週末頑張っている様子が伺えます。今年の「構築~瓦礫~」は、どうも今月中に出来上がりそうもありません。まだ全体構成に至らず、気は焦るばかりです。でも今の作品は作っていて面白いし、自分の工房で悦に入っていることがあって心は充実しています。今月はともかく「構築~瓦礫~」の完成を目指すことです。幸い暖かくなって工房で過ごす時間が楽になりました。次の水曜日に何回目かの窯が焚き上がります。RECORDも今月のテーマを考えながら思索しています。自分のヴァイオリズムは春に向って伸びていくようで、意欲が湧いてくるのを感じます。春の宵に1ヶ月の制作工程をイメージしながら、RECORDの下書きをやっています。

借りた作業場と自分の工房

昨年7月に農業用倉庫として建てた自分の工房。すっかり制作ペースが出来上がって、週末には必ずそこで作業をしています。今日も2月最後のRECORDをやって、陶彫の手の込んだ成形をやって、タタラを作って…というように作業を進めていましたが、自分の工房だと認識しているためか、あれもこれも気になって、時間があれば、あそこを整理したいとか、別の作品を同時に作りたいとか、様々な考えが巡ってしまいます。自分が横浜市公務員の定年退職を迎えた時には、きっと日々工房に籠もっているんだろうなと今から想像がつきます。指折り数えて退職を楽しみにしている自分がいるのですが、今は考えが巡りすぎて、現在作っている作品がなかなか進みません。そこは昨年まで借りていた作業場との意識の違いがあります。借りていた作業場は時間に追われるように作品を作っていました。部品を散らかしていても夕方には片付けなくてはならず、元通りにして作業場を出ました。作業場では周囲が気になることもなく、自分の作品だけを見つめていました。借りた作業場と自分の工房。自分の工房の方がいいに決まっていますが、なかなか進まない作業に苛立ちもあります。じっくり落ち着ける環境があるのに、あと6年くらい足りない時間の中で右往左往しなければならないのかと週末が終わるひと時に思っています。

週末の陶彫パーツ制作継続

週末は新作「構築~瓦礫~」のための陶彫パーツ作りに励んでいます。先週、手の込んだ陶彫パーツの成形が終わりましたが、今日も目立つ場所に置く陶彫パーツをもうひとつ作り始めました。集合彫刻としてパーツを数多く作り、その組み合わせによって作品にする方法を取っているので、パーツ作りは毎週末にやっています。目立つパーツとそれを支えるパーツがあって、全体のバランスを取るように構成するのですが、目立つパーツはまだまだ必要で、当分は緻密な作品を作っていきます。手をかけて作るパーツは、実は結構面白くて時間を忘れます。厚手にしたタタラを削ったり、加飾していくのは気持ちの良い作業です。陶土と触れ合っていると、心が安定してきます。一日があっという間に過ぎていくのです。こんな時間をずっと持ちたいと願いつつ、週末だけの限りある時間の中で、何とか集中してやっているのが現状です。明日もきっとこの繰り返しで、時間を惜しむように制作に励んでいると思います。

RECORDに「龍」描く

今月のRECORDのテーマは「渦巻く」です。そこで、天に昇る龍を描きはじめました。龍と虎は日本古来のモチーフで、掛け軸や屏風に優れた作品が残されています。京都の天竜寺の天井画には加山又造が描いた龍、建仁寺の天井画には小泉淳作が描いた双龍図、その他にも妙心寺には有名な「八方睨みの龍」があります。身体が大蛇のような龍は昔から画家の想像力を刺激してきました。自分もポストカード大の小さな画面ですが、一日1枚ずつ渦巻く龍を描いています。この毎日描くRECORDを始めてから4年目に入りますが、龍を描くのは始めてです。今年はかなり具象傾向になっていて、それはそれで新鮮です。次第に純化して抽象化してしまう傾向を抑えて、具象に留まることは今までなかったことでした。学生時代に盛んにやっていたデッサンを追体験しているようです。

「書」に対する思い

今晩は管理職仲間が集まって、日頃のストレスを発散させる機会をもちました。飲み会の席で隣に座った仲間は、「書」を嗜む人で、彼の「書」を見に行った感想を、前にブログで紹介しました。飲み会の間も「書」談義に花が咲き、自分がやっている美術と共通するものがありました。自分は「書」を見る時、美術的な見方をしてしまいます。「書」を意味のあるコトバとして読み取るのではなく、墨の黒と余白の白のコントラストとして見てしまうのです。いわば文字を記号化してしまい、抽象絵画のように黒と白が同等の価値をもち、さらに黒と白が織り成す空間を楽しんでいる傾向が自分にはあります。落款も同じです。自分がかなりいい加減に、言葉を変えれば自由気儘に彫っている印も、自分にとっては抽象絵画なのです。朱と白を空間として捉え、画面構成を作っていくのは絵画と同じだと思っているのです。落款は新作ごとに新しく彫ると言ったら、「書」も似ていると彼は言うのです。「書」も絵画と同じように空間の解釈として、筆法も自由にやれるとすれば、自分もできるかもしれないと思ったひと時でした。

イメージするチカラ

近隣のスポーツクラブに行って身体を動かしている時に、運動能力とは何だろうと考えています。たとえば水泳でたいして力を入れなくても楽にスイスイ泳ぐことができる、つまり無駄のない動きで運動をしていることだと思っています。それはどうしてそのような泳ぎができるようになるのか、ひたすら練習しても何かに気づかなければ、疲労するばかりで楽にスイスイ泳ぐことはできません。自分も大なり小なりそうかもしれませんが、近くで泳いでいる人を見るにつけ常々感じていることです。自分のことは棚上げして思うに、運動は何であれイメージするチカラが必要なのではないかと思うのです。よく言われるのがイメージトレーニングですが、それはただ見るのではなく、何かをやろうとする時に瞬時に感じ取るチカラのことだと思います。自分が行動に対して、どのくらいのイメージをもてるかどうかで運動能力が推し量れるのかもしれません。仕事帰りにスポーツクラブで感じたちょっとしたこと、これもイメージの端くれかなと思います。

夢の記述

最近ほとんど夢を見ないので、夢に関する話題は自分にとって微妙と言わざるをえません。家内はよく夢を見るらしく、朝食の時に夕べ見た夢の話題になる時があります。夢はどんな時に見るのでしょうか。精神状態や健康状態が夢を見ることに影響があるのでしょうか。フロイトの「夢判断」がありますが、無意識のうちに欲求を満たすものが夢であり、そこに意識が多少関わって夢の情景が歪んでしまうようなことを、ずい分前に聞いたことがあります。欲求といえば、かつて夢で自分は素晴らしい絵画を描き上げ、寝起きにそれをスケッチに描きとめた記憶があります。どうしても夢のようには上手くいかず、放り出してしまいました。愛読書「瀧口修造全集Ⅲ」に「寸秒夢」という章があります。瀧口は枕元に筆記用具を用意しておいて、夢の記述を試みているのです。読んでみると、確かに記憶の断片が繋がって、そこで何の疑問も違和感も無く自然に振舞う自分がいて、そういう夢の気分を自分も昔味わったことがあると妙に同感してしまいました。夢は脈絡の無いドラマ。でも自分は何者でもない自分として存在していて、いろいろな関わりの中で夢の中を生きているのです。それは詩の原形と言えるのか、イメージの産声なのか、刻み込まれた記憶の現れ方に人間の不思議を感じずにはいられません。

運転免許の失効手続

公開しているホームページ内のNOTE(ブログ)にも関わらず、自分のメモや失態を許容範囲で掲載しています。というのもブログは、自分の振り返りとして後になって読み返し、時に自分の気分を高揚させたり、戒めたりすることがあるからです。今日のブログの内容は甚だプライベートですが、自分の恥ずかしい一面を吐露する内容を掲載することにしました。運転免許証が失効しているのに先週気づいたのです。失効してまだ1週間。昨年4月より現在の職場に異動してきて、自家用車通勤からバスや電車による通勤に変わりました。職場が自宅から近くなったことで、車の必要性を感じなくなったこと、多忙にかまけて免許証の有効期限を確認しなかったことが原因です。いざ失効してみると、やはり不便を感じて、今日は職場を午前中休んで運転試験場に行きました。自分と同じでうっかり失効してしまった人が多いのには驚きましたが、更新なら速やかに終わる手続が、たっぷり時間を取られて、それでも即日交付になってホッとしました。夜、さっそく家内と車で買い物に出かけました。通勤に使わなくても便利な生活必需品になっている車。やれやれ。文明の利器には勝てないと思った一日でした。

陶彫成形に時間をかける

工房に籠もって制作に励んだ一日でした。今日は新作「構築~瓦礫~」の部品になる陶彫の成形にたっぷり時間をかけました。陶彫の部品は少しずつ出来上がっているのですが、そのうちいくつかの部品は加飾に時間をかけて、目立つ位置を与えようとしています。集合彫刻の部品は目立つものがあれば、それを支える部品があって、それでバランスを保つように作ります。まして今回の新作は全体計画を意図的に考えずに作り始めているので、ポイントをどうするかは、勘を頼りにやっているのです。きっとこんな具合になるはずだと信じて、陶彫の部品作りに励んでいます。出来上がった陶彫の部品を見ながら、そろそろこんな陶彫の部品を作ってみようと思い立ってやっているのです。現在作っているものは、手間暇かかる加飾を施していて、他の部品よりもやや背が高く、部品を集めた時に目立つような工夫をしています。巧くいくかどうかわかりませんし、または無駄が出そうな気もしていますが、アバウトな構想で始めたことなので、そこだけは貫いてやっていこうと思っています。

イメージは転寝とともに…

今日は週末ですが、職場の施設を他団体に貸すために自分だけは出勤していました。とくにやるべきこともなく過ごしていた職場でRECORDを描いていました。今月のRECORDは「渦巻く」テーマでやっています。渦巻くイメージをあれこれ考えるうち、龍が渦巻いて天に昇るイメージが出てきて、これもありかなと思っています。今月のどこかで龍の表現を試そうと思います。午後は自宅に帰ってきましたが、中途半端な時間で工房に行って陶彫に手を入れる気になれず、自宅でぼんやり過ごしているうち、ソファで転寝をしてしまいました。すると転寝で作品になるかどうかわからないイメージが沸々と出てきました。昨年夏にギャラリーせいほうでの個展で発表した「発掘~赤壁~」という作品があります。壁の上に作った陶彫の部分が昆虫のようだと誰かに言われました。そのせいか甲冑を纏った虫が這っているイメージが出てきて、これを自分が陶彫で作ろうとしている夢をみました。もうひとつ、ひょろひょろと尖った塔がいっぱい突き出した風景が現れて、そのギクシャクとした中に自分が取り込まれている夢もみました。それはドイツ表現派の作り出す遠近を歪めた風景のようでした。工房に行かずとも今日は頭の中で多くの仕事をしたような気分でいます。

ジャスパー・ジョーンズの素顔

これは私だけが感じることなのかもしれませんが、アメリカの現代美術の旗手は、誰でもカリスマ的風貌を持っていると信じて疑いません。アンディ・ウォーホルの風貌から受ける偏った印象でしょうか。それともジャクソン・ポロックの派手な制作風景の印象でしょうか。ジャスパー・ジョーンズの作品から受ける印象も同じです。ダーツの標的やアメリカの国旗等を題材にして、ネオ・ダダやポップ・アートの先駆的な作品は、世界的に知られる存在です。絵画でありながら従来の絵画性を否定した作品は、学生だった自分を刺激しました。絵画自体が「もの」であり、平面的なオブジェを作っていると考えれば、容易く理解はできるのですが、何か近づき難い雰囲気を感じていました。ドアノー写真集「芸術家たちの肖像」に登場するジャスパー・ジョーンズは、とても人間臭い表情をしています。作品を作っている時の眉間に皺を寄せる気難しい表情。版画工房で見せる屈託の無い笑顔。カメラはその人の一瞬の仕草を捉えて、人となりを浮き彫りにしているかのようです。ジャスパー・ジョーンズを身近に感じることのできる写真です。

ギャラリーに「赤壁」アップ

自分のホームページの中のギャラリーに「発掘~赤壁~」をアップしました。昨年夏のギャラリーせいほうの個展で発表した陶彫による作品です。昨年の今頃作っていた思い出があります。「発掘~赤壁~」を考えた時の、初めのイメージは4点からなる連作です。4点が全部完成したところで発表しようと思っていました。まだその計画は続行中ですが、「発掘~赤壁~」を作ってみると、意外に時間がかかり、4点を全部仕上げていると個展に間に合わなくなることがわかりました。そんな思いで制作した作品なので、時間さえ許せば次の壁シリーズを作りたくて仕方がないのです。陶彫の部分に照明を仕込むことも考えました。それが出来るように細工はしてあるのですが、これも個展に間に合わず、単純な彫刻作品として発表したのです。ホームページをご覧になりたい人は、この文章の最後にあるアドレスをクリックしていただければホームページに入れます。ご高覧いただければ幸いです。 Yutaka Aihara.com

ピカソのポートレート

ドアノー写真集「芸術家たちの肖像」の中で、やはり一番気を引くのはパブロ・ピカソのポートレートです。ピカソのポートレートは自宅にもう一冊、ディビット・ダグラス・ダンカン写真集「ピカソとジャクリーヌ」があります。これはカンヌのヴィラ・カリフォルニーで撮影したモノクロ写真で構成されていて、美しいジャクリーヌと暮らしたピカソの充実した制作ぶりや気儘に生活を楽しんでいた様子が垣間見られて、それだけで創作の現場をありありと示す大変説得力のある写真集になっています。「芸術家たちの肖像」に登場するピカソは、陶芸の制作現場となったヴァロリスでの様子です。骨格のはっきりした風貌に眼光鋭いピカソは横縞のシャツを着ています。大きな手の形をしたパンをテーブルにおいてポーズをとるお茶目なピカソもいます。この横縞のシャツはどこかで見たような…箱根の彫刻の森美術館にあるピカソ館に確か同じ写真があった…かもしれません。数点の写真の中で印象的なのは、カマキリを手のひらに乗せたピカソの写真です。ピカソの行動そのものが、どんな場面でも創作への息吹に感じられるのは自分だけでしょうか。

写真集「芸術家たちの肖像」

表題はロベール・ドアノー写真集「芸術家たちの肖像」(岩波書店)です。自宅の書棚には田沼武能写真集「アトリエの101人」(新潮社)、南川三治郎写真集「アトリエの巨匠・100人」(新潮社)があって、時折頁を捲っています。芸術家の制作現場を撮影した写真集は全部で3冊持っていることになります。同じ創作をやっている者として、他人のアトリエや工房を覗くことは俗っぽいと言われても興味津々です。巨匠と言われる人々はなおさらで、写真に写し出された風貌がその人の作品とよく似ていたり、また裏切られたりして、何とも楽しい限りです。なるほど、この人はこんな場所で制作しているのかと思うことがいいのです。「芸術家たちの肖像」を眺めていると、この普段着の人が、実は○○という芸術家だったのかと改めて思い知り、その人物の様子や周囲の環境から様々なことが想像できます。「芸術家たちの肖像」で、気になった芸術家は何人かいましたが、それはおいおいブログに書かせて頂くとして、ともあれこのモノクロの写真集には、創造する現場がリアルに現れていて、自分は大変な刺激を受けました。

目黒の「ベルナール・ビュフェ展」

昨日、目黒区美術館で開催中の「ベルナール・ビュフェ展」に行ってきました。昨日のブログに書いた通り、昨日は親戚の招待を受けたり、池袋に沖縄民謡を聴きに行ったりした一日でしたが、昼の僅かな時間を使って、目黒にも足を運んだのでした。ビュフェは自分にとって御馴染みの画家です。御殿場にあるビュフェ美術館には数回行ってるし、それ以外にもギャラリーで絵画や版画を観ているのです。それほど日本人にとってビュフェは身近な画家なのかもしれません。抑えたグレートーンの画面の中に、ささくれ立った黒い線で細い人物群像を描いた作品が、ビュフェ絵画の定番と言えるほど自分の印象に残っていて、そんな作品にまた出会えると思うとワクワクしてくるのです。果たしてビュフェ絵画の定番はやはり目黒にも来ていました。人物はそれぞれ孤独感を抱え、意思の疎通が無いような雰囲気が漂います。虚無感や不安感が画面を支配しているのです。今回の目玉は「木を植えた男」の著者として知られるジャン・ジオノとビュフェの交流を取り上げていることです。ジャン・ジオノの著書「純粋の探求」にビュフェが挿画を制作していて、2人のコラボレーションがそれぞれの主張するものに説得力を与えているように思えます。文学と美術がお互いを生かしている例は他にもありますが、今回は上質できらりとした光る世界を見せているような感想を持ちました。

沖縄民謡の夕べ

週末の制作ノルマを早朝5時半から工房で行い、午後時間を空けました。家内の従兄弟たちが集まるというので、自分も招待を受けたのです。手料理を振舞われて、いい気分になっていたところに、従兄弟の一人が沖縄民謡を聴きに行こうと言うので皆で夕方出かけることになりました。家内も含めて集まった従兄弟たちは奄美大島の血を引く人たちです。沖縄とはあまり関係ないのに、と考えていたら大学の同期に沖縄の伝統音楽を研究している人がいるとか…。それならばサンシンや太鼓の響きをぜひ聴きたいと、池袋の居酒屋「塁」に席を移しました。従兄弟の同期の大城さんは太鼓、島唄はプロのミュージシャンである八重山民謡師範の吉川忠尋さん。今日は沖縄の旧正月にあたるそうで、まず祝い歌から始まり、ノリのいいビギンの歌まで沖縄一色の演奏に、思わず踊りだしてしまいました。自分は踊りながら、じっとサンシンを演奏する吉川さんの手を見つめていました。サンシンがやってみたいと思い始めています。自宅には奄美大島から送ってもらった立派なサンシンがあるのです。もう少し暇ができれば、サンシンの弾き歌いをやってみたいのです。それはいつになることやらわかりませんが…。仕事以外に夢は広がるばかりです。

「川喜田半泥子のすべて」展

銀行取締役、そして頭取、財界人として活躍した川喜田半泥子。自分は陶芸家として知っていましたが、実は趣味が高じて、その域を抜き出ていたことを、この展覧会を通じて知りました。本格的な二束の草鞋。自分にとっては先達にあたる人だったわけです。自邸に窯場を設けて、日本各地の陶芸要素を取り入れた自由闊達な作陶ぶりが伺えて、実に楽しい展覧会でした。知人にチケットを頂いた上、会場が地元横浜のデパートとあれば、冬の寒いひと時を過ごすのにこれは絶好の場所と言わざるを得ません。その知人が知ってか知らずか、川喜田半泥子はスケールに違いはあっても自分と同じ境遇で、さぞや多忙だったのかもしれないと思いつつ、その一方で恵まれた環境があったと思っています。食うや食わずの生活をしながら芸術を貫くことが、川喜田半泥子にも自分の人生にも無いと思うからです。だからといって芸術を飾りくらいにしか考えていないわけではなく、趣味と言ってはあまりにも理不尽なくらい精魂傾けていて、ヘタをすれば管理職を擲っても、これをやってしまいたくなる勢いがあるのです。これは霊に憑かれたようなもので、なんでこんなものがいいのか自分にはわからなくなる時があります。「川喜田半泥子のすべて」展を見て回ると、その軽妙洒脱さと好き勝手にやっていく自由さが、自分の心にすっと入ってきて、自分もこんな境地でやればいいのかと、創作にかける思いを新たにした次第です。

カタチの崩しを考える

陶芸でも彫刻でも長年やっていると、技巧に走ってしまい、「手なり」でモノを作っていると感じることがあります。陶彫に関しては、自分ではどうなのかわかりませんが、焼成の成功率の高いカタチを選ぶと、あるいはそうなることがあると思います。制作への集中力や緊張感が薄れてくることが原因だと考えます。失敗に悩んでいるうちは、まだそんな心配はいらないのかもしれませんが、慣れは気づかぬうちにあって、自作がつまらないと感じることもあります。意図的にカタチを崩すのは、退屈を打開する方法の一つではありますが、かえって意図が見えて嫌らしさが出てしまうことがあります。作為なき作為、意図するものはあっても自然にカタチが変容するくらいに精魂傾ければ、そこに創作の面白さを感じられるはずですが…。ピカソのように破壊と創造を繰り返していける才能とパワーが欲しいところです。一度スタイルを作り上げてしまうと、その亜流を繰り返すばかりでは進歩が望めません。カタチの崩しは手業ではなく、心の在り様で成せるものと感じています。

2つのグループ展

今日は休日ですが、工房には行かず、知り合いが出品しているグループ展を2つ見て回ることにしました。幸い2つとも地元の横浜でやっているので、気軽に出かけて行きました。ひとつは以前借りていた作業場によく来ていた美大生が出品している卒業制作選抜展。彼女に会うのは久しぶりでした。美大でプロダクトデザインを学んでいる彼女は、「結風~風の運ぶすべてのものとあなたを結ぶ~」というタイトルで、障子をモチーフにした作品を出品。格子ひとつひとつが風により俄に揺れる工夫が凝らされていて、その微妙な動きと清楚な造形感覚が現代的な「和」を演出していました。古来からある幾何文様の美しさに自然な動きを加えた企画は、商品化を狙える要素を持っているように思えました。もうひとつのグループ展は書道展。「芳林書展」に出品しているのは自分と同じ管理職仲間です。理数系出身の彼が書を嗜むとは、ちょっとびっくりしましたが、その筆跡の美しさにも驚きました。「積文学」という3文字が、鮮やかな墨で勢いよく書かれた作品を見て、こういう一面も彼のどこかにあるのかと、改めて人の心の多様さを考えました。二束の草鞋は自分だけではないと勇気づけられた一日でした。

体調は戻りつつ…

声が枯れて咳き込んでいる症状も次第に回復してきました。体調は戻りつつあるものの、無理ができないかなと思っています。明日は休日です。最初の計画では、思い切り制作を頑張る予定でしたが、必要最低限にして身体を休めようと思っています。明日は窯出し、RECORDの彩色くらいに留めようと考えています。休日は工房に行かないと気がすまないので、工房での制作時間は2時間程度としました。焦らず休まずが自分のスタンスです。少しずつの積み重ねを大切にやっていこうと思います。

生活環境が齎すもの

自分が24歳から29歳までの5年間海外で暮らしていたことを、50代になって忘れているかと思えば、そうではなさそうだと実感する時があります。もちろんブラブラしていた5年間で失ったものもあります。30歳になったばかりで帰国した時に同世代に引け目を感じていたことは確かです。公務員というありふれた職種を選んだのであれば、早くから日本でやっていても良かったし、彫刻家としてデビューしたのも遅かったのです。大学の仲間がいろいろな美術団体に所属して活躍しているのを知って、親元にいて仕事場も無い自分はどうしたらよいのか悩んでいました。でも最近は海外に住んでいたことが自分の感覚に根付いていて、空間の解釈に多大な影響を受けていることを自覚しました。自宅を建てた時の間取りや工房の在り方が、日本で暮らしていた時の自分とは明らかに違うのではないかと思うのです。狭い日本の住宅事情を考えても、今の自分は贅沢な空間を持っています。贅沢と考えるのは、帰国してから時が経っている証拠で、海外ではこのくらいは贅沢でも何でもありません。そうした生活環境が齎す雰囲気が作品に表れるのではないかと思うことがあります。芸術そのものが文化国家には必要不可欠なモノでも、見方を変えれば贅沢なモノです。その作り手としては空間の大小ではなく、作品を思索しやすい環境を持つべきと考えます。

ガラガラ声と大きなマスク

今日職場に行くと、「どうしたんですか?」「声がつらそうですね」と自分の顔を覆っているマスクを見ながら、職場の人が声をかけてくれました。管理職である自分は今までなら周りを気遣い、周りの人に声をかけていました。「年休が欲しいのですが…」と職場の人に言われれば快諾して「お大事になさってください。」と送り出していました。今度は自分がそうなっているのですが、年度末に近くなって仕事で帰るに帰れず、結局は勤務終了まで職場にいました。帰りがけ、「僕が車で送りましょう。」と、自分を気にしてくれていたベテラン職員が言ってくれたことが天の助け。好意に甘えてしまいました。年休は管理職が承諾するものですが、自分は年休が取れずに、こうして身体を騙しつつ山積する仕事をこなしていくのかなと思いました。現在、人事評価がある程度出来上がって、来年度に向けての準備が始まっています。この立場で、いったいいつ休めるのか、週末は別の世界を持っている自分には厳しいものがあります。健康あっての二束の草鞋。自宅では仕事をせずに休もうと思っていたら、目の前にRECORDの白い画面。加えて今書いているブログ。病の中で描くRECORDもまた一興かも、と咳き込みながらペンを走らせました。

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